音楽で一言


酒が無くても構わないけど、音楽が無い生活は許せないのです。

 その昔、子供が小さかった頃、子供に子守唄を聴かせるのはみっちゃんで、僕はLos Indios Tabajaras(ロス・インディオス・タバハラス)の兄弟が奏でるギターで眠れたのです。
当時はレコードですから、ステレオセットでの全曲が終わりアームが戻ると電源をオフになるように改造してあったのです。家に似合わない大きなスピーカーボックスだったですね。

 僕が洋楽に出会った最初と云っても良いのは、近所のお姉さんが留守の間に入って聴いても良いよと言ってくれ、江利チエミさんがカバーした、ローズマリー・クルーニーのカモナ マイ ハウス(Come on a My House)
往年の彼女の歌声と、

少しふっくらされて、日本公演のようですが、変わらぬ声量で歌われてるのが見付かりました。


 お姉ちゃんの家に上がり込んで、当時少ないステレオの前に座り込んで何度も何度も聴き込んだのでした。
暫くして、友人とステレオを組んだんです。ゲルマニューム検波器が出て、アメリカではトランジスターが発明された頃じゃないかと思うのですが、僕らはレギュラーな真空管の回路図を手に入れ、日本橋の電気街で部品を、月々の小遣いで集めました。スピーカーボックスは厚いチップベニアに毛布を敷き詰め、幼い道具で苦労して出来上がって音が出た時の嬉しさは、ずっと後に子供が生まれた時にイコールであったように思えます。

 隣りから苦情が来るぐらいの音量でドカスカ鳴らしたのは、もっぱらジャズだったんです。
隣りのおばちゃんに『キャバレーでも出来たのかと思ったよ』と皮肉を言われたものでございます。
交通事故で入院した時、一年後輩のポン友が見舞いにラジオしか聴けなかったラジカセサイズのを貸してくれて、電リク(電話でリクエスト)なる音楽番組を部屋で聴いていると、隣りの女子部屋から紙飛行機が飛んで来て、静かにしろなんて書いてあったのです。大人しく聞くはずもなく、日本に上陸したてのコカコーラを差し入れして、ご機嫌伺いをしたものでした。一番年下だった僕の言い草が「怒らんといてぇ〜や」だったのです。
ツイスト全盛期でもありました。チャビー・チェッカーですよね。


 当時の3階の入院病棟は長丁場の患者が多く、必然的に顔馴染みとなり、人懐っこい大阪人の集まりですから、兄弟姉妹のような付き合いだったのです。ええ僕はですけどね。
本来、何事にも凹まない奴のはずで、音楽を聴いただけで元気になっていた若い頃は、落ち込む材料もその程度だったのでしょう。
彼女に振られたと云っても、その後の恋に比べりゃ〜命を賭けるほどのものでもなく、芸能人への憧れ程度だったように思います。ごめんね、瀬古口敬子ちゃん、近藤信子さん。

 付き合った彼女を想い出すと同時に、流行の曲名が合って、その曲をも思い出すのです。
曲を聴くと彼女を想い出すのです。ケメ子の歌は、三人目の岡山県の妙子でした。
僕が初めて男になった子でしたから忘れるはずもなく、今も元気なら65歳、良いお婆ちゃんになっていることでしょう。僕との間に子供は居たのかなぁ〜
こういう事って女は隠し通すことができるようで、息子も僕に似ていないのが不思議で、みっちゃんに聞いたことがあります。『ごめん、隣りのお兄ちゃんだわ』と冗談めいて言ってたけど、真実って信じないものですよね。

 此処で、スピーカーから音楽を流すことはできません。ですから、ヘッドフォンかイヤフォンで聴いています。
息子と暮らした家は陽射しが入らず、空もトイレットペーパーのように細長い範囲でしか見えず、嫌だったのです。それが、思わぬ力で吹き飛ばされて広い空に奇麗な空気を手に入れることができました。
でもって、スピーカーで聴けない環境を嫌だ嫌だと思い続けると、前者のような力で全てを手に入れる夢が叶うように思います。小さなほ乳類が空を見上げている内に、膜が出来てコウモリになったようにです。

 念じれば叶うものなのです。皆さんも念じて夢を叶えてくださいね。
MAYUMIちゃんの膝とベストな彼氏ができますように、共に念じましょうね。

 
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by kattyan62 | 2011-09-04 18:53 | Music