映画/菩提樹(サウンド・オブ・ミュージックの前作)

   今日の午後、BS2で放映してたのを観ました。この映画が作られたのは1956年のことなんだそうです。当時のドイツのトップ女優だったルート・ロイヴェリックが主演して大ヒットしたのを映画館で観た記憶があります。
この映画の元になった原作は、マリア・フォン・トラップさん本人が書かれた伝記がベストセラーになり、その全ての権利をドイツの映画会社が9000ドルで買い取ったためにヒットした映画の利益の恩恵には浴しなかったんだそうです。その権利を売ることになったのは、当時、トラップ家でお金が必要だったためなのだそうな。

 マリア・フォン・トラップさんは、1905年1月26日にオーストリアで生まれて早くに両親を亡くした不遇の環境だった人ですが、その不遇の環境が運命の出会いのお手伝いをしたんですな。つまりは不遇を嘆く必要はないってことかもしれません。

 以前、マリアさんの孫って人がテレビに出演してるのを観たことがあって、演奏活動の切っ掛けになったのは、ザルツブルグ音楽祭に出演して優勝したことから始まってます。詳細は下記に(Wkioediaよりコピー)

 その後(ご)、演奏活動を終えた後(のち)、自給自足の生活の延長でロッジを経営し、今も子孫が運営しているんやそうです。行動力・決断力・統率力など全てを備え、人を巻き込むことに優れた才能を持った方だったようですな。

 僕はミュージック映画も好きで感激して涙する癖がありましてな、テッシュ無くしては観れません。
(例/天使にラブ・ソングを=1&2/ハッピー・フィートetc)
 後々、公開されたサウンド・オブ・ミュージックも原作者はマリアさんですが、旦那のトラップさんが現実離れしていたので脚本家にクレームを付けたそうですが聞き入れられず、ご本人の実際を知るには原作を読むほかないのですなぁ〜 

 今日の昼食
12貫入りの寿司を頂きました。980円也 贅沢しましたね。夕飯は質素にしなくてはと考えています。

 ほな、サウンド・オブ・ミュージックの原作者に興味のある方は下へどうぞ。
写真(1954年1月21日ぎりぎり48歳、撮影)付き



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マリア・フォン・トラップ(Maria von Trapp, 1905年1 月26日 - 1987年3 月28日)は、トラップ・ファミリー合唱団で知られるオーストリア生まれの人物。本名マリア・アウグスタ・クチェラ(Maria Augusta Kutschera)。オーストリア海軍の軍人だったゲオルク・フォン・トラップと結婚し、亡くなった前妻の子供たちと自らの子供たちでトラップ・ファミリー合唱団を結成して有名になる。彼女の自叙伝を自由に脚色してつくられたのがミュージカル・映画『サウンド・オブ・ミュージック』である。

 生まれてすぐに母アウグスタ・ライナー(Augusta Rainer)を亡くしたマリアは、父カール・クチェラ(Karl Kutschera)の手で親戚に預けられたが、その父も9歳のときに失った。やがて預けられていた親戚との折り合いが悪くなると、彼女は家を出て全寮制の学校に入った。音楽が好きだった彼女は青年たちのグループに加わってオーストリアの民謡を習った。もともとキリスト教に反感をもっていた彼女は音楽を聴きたいためだけにカトリック教会のミサに預かっていたが、やがてキリスト教に心を惹かれるようになった。
ノンベルク修道院
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 信仰を徹底しようと、ザルツブルクにあった女子ベネディクト会のノンベルク修道院に志願者として入ったが、修道院の暮らしになじめず体調を崩した。そこで院長の勧めで修道院を離れ、娘マリアの家庭教師を探していたトラップ家に住み込みで働くことになった。

 1926 年にトラップ家にやってきたマリアは、もともと音楽が好きだった7人の子供たちと心を通わせるようになり、子供たちとハイキングに出かけたり、バレーボールやサイクリング、ダンスなどに興じるようになった。やがて、父親のゲオルク・トラップと心を通わせるようになり、1927年11月27日にノンベルク修道院で結婚式をあげた。このとき父親のゲオルクは47歳、子供たちは長男ルーペルト 16歳、長女アガーテ14歳、次女マリア13歳、次男ヴェルナー12歳、三女ヘートヴィック10歳、四女ヨハンナ8歳、五女マルティナ6歳であった。やがてゲオルクとマリアの間にもローズマリー、エレオノーレ、ヨハネスという一男二女が生まれ、12人の大家族になる。

 1933 年、オーストリアを襲った金融恐慌によってトラップ家の財産を預けていた銀行が倒産し、財産を失った。その頃知り合ったフランツ・ヴァスナーという神父はグレゴリオ聖歌に精通しており、兄弟姉妹の歌の指導をするようになった。さらにひょんなことから1935年のザルツブルク音楽祭の大衆歌手コンテストに参加し、ヴァスナー神父の指揮で兄弟姉妹と母親で歌ったところ優勝してしまった。以降、この合唱団は人気となり、やがてヨーロッパ全域を回り、「トラップ室内聖歌隊」という名前でコンサートをおこなうようになった。

 1938 年、オーストリアはナチス政権下のドイツに併合された。ちょうどその頃、アメリカ合衆国のエージェントから公演の依頼を受けていたこともあり、家族でオーストリアを離れることになった(ナチ党員だったにもかかわらず一家に同情的だった執事ハンス・シュヴァイガーが亡命を進言した)。一家と行動を共にすることに決めたヴァスナー神父と一家は汽車を乗り継いでスイス、フランス、イギリスへと渡り、サウサンプトンからアメリカへ向けて出航した。アメリカでのビザが切れると再び一家はヨーロッパへ戻り、そこでもコンサートを行って、1939年10 月に再びニューヨークへやってきた。

1940 年になると大手プロダクションが家族のプロデュースを引き受けることになったが、その時に「トラップ聖歌隊」という名前を改めて「トラップ・ファミリー合唱団」にし、曲目から聖歌を減らしてフォークソングを中心にするよう改められた。こうしてアメリカ中をまわるようになると再び評判を呼び、1956年までコンサート活動をおこなった。1948年、一家はようやくアメリカの市民権を得た。

 夫ゲオルクは1947年に亡くなったが、マリアは家族の歴史をつづった The Story of the Trapp Family Singers(1949年、『トラップ・ファミリー合唱団物語』)や Around the Year with the Trapp Family (1955年、『トラップ一家の一年』)などを次々と出版し、ベストセラーになる。

 1956 年、ドイツの映画会社がマリアの著作の映画化と関連権利のすべてを9000ドルで買い取った。この時収入を必要としていたマリアがすべての権利を売ってしまったため、以降の映画がもたらした莫大な収入の恩恵に家族はまったくあずかることができなかった。ドイツではこの著作を元に、当時のトップ女優ルート・ロイヴェリク主演の2本の映画(『菩提樹』[Die Trapp-Familie]、1956年、『続・菩提樹』[Die Trapp-Familie in Amerika]、1958年)が作られ、さらにアメリカのプロダクションがその権利を買い取ってミュージカルを作ろうと考えた。そこでリチャード・ロジャーズとオスカー・ハマースタイン2世の売れっ子コンビが作品化を引き受け、トラップファミリー合唱団の実際の演目を使うという当初のアイデアを捨てて、完全にオリジナル曲を作ってミュージカル化した。

 ミュージカルは大ヒットしたが、あまりに現実とかけ離れた物語や父ゲオルクの人物造形にマリアと子供たちはショックを受けた。やがて1965年にジュリー・アンドリュースの主演で映画化されると世界中で大ヒットした。このときもマリアは脚本家に対して、夫ゲオルクの書き方を改めてくれるよう頼んだが、結局聞き入れられなかった。

 一家がコンサート活動を終えると、マリアは数人の子供たちとバーモント州ストウにトラップ・ファミリー・ロッジを開き、自給自足の傍ら、訪問者をもてなしながら各地で講演活動を行った。

 映画以上の激動の人生を送ったマリアは1987年3 月28日に闘病生活の末にこの世を去った。現在、マリアはトラップ・ファミリー・ロッジの一角の墓地にゲオルクらと共に眠っている。
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by kattyan62 | 2010-04-30 16:08